10日間(11泊12日)の瞑想コースを修了しました。
つ・ら・かっ・た・・・
何度も途中で帰ろうと思いました。
こんなふうに途中で逃げ出したくなったのは本当に久しぶりのことのように思います。
毎朝4時起床で夜9時までずっと瞑想。
コースに参加したのは40人ほどですが最終日まで誰とも話をしてはいけません。
酒もタバコも禁止です。
食事は1日2回の菜食。
早起き、沈黙、禁酒禁煙、肉無し生活などは全然平気でした。
むしろ心地よかったです。
ただ純粋に瞑想がつらかったのです。
先日久しぶりに会った友人からこのコースのことを知り、
「集中力を鍛えたい!」あるいは「自分をとことん見つめたい!」
という単純な気持ちで自分はコースに参加しました。
ですが、この瞑想はずばり「解脱」を目指す由緒正しい瞑想法なのでした。
かつて仏陀が悟りを開いたときの瞑想法。
それは仏教以前の宗教を越えた純粋な瞑想。
一度は忘れ去られかけたこの瞑想法が25世紀経った今、世界中に広まっています。
参加している人には大学の先生や仏教の僧侶からOLや学生、欧米のビジネスマンやヒッピーと幅広かったのが特徴的でした。
自分なりにこの瞑想法を整理すると「自らの生命(いのち)を観察する」ということでしょうか。
自分の呼吸。自分の体のあらゆる部分の感覚。
そうしたものを集中することによって高めるのではなくただ観察する。
ひたすら観察する。あるがままを受け入れる。
なにがあっても平静な心で。
それにより痛みや嫌悪、欲や執着といった意識をただの自然現象として捉えられるようになるのです。
簡単なことではありません。。
あの仏陀ですら何年もかけて身につけたものです。
私なんぞが10日かけたくらいではとうてい及びません。
120時間以上瞑想したかと思いますがそれっぽいと思えたのは数分もあったでしょうか。
泣き出す人も途中で帰る人もたくさんいました。
わたしも何度か帰ろうとしました。
私は解脱を目指しているわけではないですし、まったく瞑想ができずただ苦しんでいただけのように思えたからです。
そんな私に対して指導者は「それでいい。それでいい。」と仰いました。
その言葉を信じたというより、わたしは10日後の自分を見てみたかったのです。
最後までやって変化が無いならそれは「無意味だった」と判断できる。
でも、途中でやめてしまったらその判断すらできなかいと思ったからです。
私はこの瞑想法が目指す境地というものを勝手にこう想像していました。
痛みも空腹も悲しみも歓びもただの感覚として生きているように見える野生動物の境地。
私はそれをシカやレイヨウ類などの草食動物の瞳のなかに見ます。
その境地に人間の知恵を加えることができたらおそらく凄いことになる。
仏陀の教えとはまったく違うのかもしれませんが、私はそれを見てみたい、感じて見たいと瞑想を続けたのです。
結果は言うまでもありません。そんなことは微塵も感じられませんでした。
(それっぽいと思える瞬間は何度かありましたが・・・)
ですが気持ちはとてもスッキリしています。
意味があったかどうかは今の段階ではさっぱりわかりません。
ただ、瞑想中にとんでもなく素晴らしいアイデアをひらめきました。
この2年半ず~っと温め続けていたアイデアを一気に前進させるこのアイデアに震えが止まらないほどでした。
仏陀には怒られるかもしれませんが最後の数日はほとんどこのアイデアについて考えていました。
ものすごい集中力で。。。
その内容についてはまた別の機会で。

1 件のコメント:
すごい笑
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